2006年06月26日
六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は鎌倉幕府の六波羅探題が置かれていたところである。その前は平氏の屋敷があり、平清盛はここに住んでいたので、六波羅殿と呼ばれていた。六波羅蜜寺は西国三十三ヶ所霊場の第十七番札所となっている。このお寺を開いたのは、空也上人であるが、天暦5年に京都で悪い病気が流行した時、空也は悪疫退散の願いをこめて十一面観音像を作り、それを車に乗せ京都の街をめぐった。流行した悪疫が退散した後、空也は、この十一面観音を本尊として、応和三年に西光寺を建てたが、それがのちに六波羅蜜寺と改名された。六波羅蜜寺は、源頼朝、足利義詮、豊臣秀吉などの信仰が厚く、その援助を受けて大変栄えた。寺宝には、空也上人像、平清盛といわれる僧形坐像などがある。
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2006年06月23日
霊山観音
霊山観音は維新の道の北側、護国神社の西側にある。高さが26.4メートルのコンクリート製の観音坐像である。この観音様は、昭和30年に一篤志家が戦争犠牲者の冥福を祈って建立したものである。
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2006年06月19日
京都霊山護国神社
京都霊山護国神社は、霊山歴史館の北にある。ここは官祭の招魂社のいちばん最初の神社で、幕末に倒れた各藩の志士たちを、明治元年に祀ったのが始まりである。太平洋戦争までの京都府出身の戦没者も祀られている。坂本竜馬、木戸孝允、中岡慎太郎、頼三樹三郎といった志士たちが神社の後ろにある墓地に眠っている。護国神社と霊山歴史館へ至る道は、維新の道と呼ばれており、途中には勤皇の志士たちの会合の場となっていた翠紅館の跡がある。
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2006年06月11日
金剛寺(八坂庚申堂)
金剛寺は、東京浅草寺、大阪の四天王寺と共に日本三庚申の一つである。最澄作と言われる見ザル、聞かザル、言わザルの三猿の像が本堂にある。この金剛寺で祈祷を受けたこんにゃくを病人の頭に吊り下げておくと、病気がよくなると言われている。
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2006年06月05日
清水焼
清水焼の窯場は五条坂から泉涌寺にかけてあったが、現在は山科や宇治に場所を移している。京焼の起こりは、江戸時代の寛永年間に瀬戸の陶工、三文字屋九右衛門が粟田口辺りではじめたものと言われている。その後、尾形乾山が乾山焼を、野々村仁清が清水焼をあみ出した。清水焼の伝統は音羽屋清兵衛、奥田潁川、清水六兵衛などに受け継がれ、幕末に青木木米によって大成された。清水焼は白い薄手の地肌に絵柄は気品あふれ、京料理を引き立たせる。
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2006年05月24日
三年坂(産寧坂)
三年坂は清水坂から北の方へ下がる坂にある。三年坂から北へ行くと二年坂がある。三年坂、二年坂の辺りは、歴史的にも文化的にも価値の高い所ということで、国の重要伝統的建造物群保存地区になっている。二年坂、三年坂というのは、大同2年(807)と大同3年にできたので、そのような名がついたといわれている。三年坂は産寧坂と書くこともある。これは清水寺の塔頭の泰産寺の子安観音への参詣する通り道であることから付いたとも言われている。
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2006年05月23日
東福寺
東福寺は九条道家が聖一国師弁円を開祖として寛元元年(1243)に開山した、京都の禅寺としては建仁寺につぐ古いお寺である。スケールの大きさを奈良の東大寺に、華やかさを興福寺になぞらえて東福寺と名づけ、19年の歳月をかけて出来上がった。京都有数の禅寺として栄えたが、明治14年(1881)に方丈から出火をし、応仁の乱でも焼け残った仏殿、方丈、法堂、庫裏などが炎上した。だが、大正、昭和にかけて再建された諸堂宇は、秀れた庭園とともに大変見ごたえのあるものである。東山の南一帯を占める広い境内には国定指定の三門、大本堂、重要文化財指定の愛染堂、鐘楼、月下門、東司、二王門、六波羅門、十三重塔などが立ち並んでいる。仏殿から方丈と経堂の間を流れている渓流が洗玉澗、その上には偃月橋、通天橋、臥雲橋がかかり、通天橋のある渓谷の一帯にはカエデが多く、紅葉の名所となっている。
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2006年05月09日
万寿寺
万寿寺といえば、かつては京都五山の一つという格式のあったお寺であるが、火災にあい衰えてしまった。その後、天正三年に万寿通り柳馬場から三聖寺に移った。明治になって、三聖寺ともども万寿寺となり、東福寺の塔頭となっている。
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2006年04月28日
雲竜院
雲竜院は、泉涌寺のすぐ隣にある。後光厳天皇が応安五年に建設されたもので、天皇と深い関係があるお寺である。正保三年に現在の本堂が建てられ、国の重要文化財になっている。また霊明殿には北朝時代の歴代の天皇の位牌が安置されている。鐘楼と勅使門は、後水尾天皇が寄進されたものと伝えられている。
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2006年04月22日
観音寺
観音寺は、今熊野観音寺とも言われる。即成院、戒光寺、新善光寺などと同じく泉涌寺の塔頭(末寺)で、西国三十三ヶ所霊場の第十五番札所となっている。この寺は、熊野権現から、弘法大師が十一面観音菩薩を授かって、安置したのが始まりと言われている。
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2006年04月21日
戒光寺
戒光寺は即成院の隣にある。高さ10メートルという大きな釈迦如来立像がある。ここの本堂は泉山丈六釈迦堂とも呼ばれる。
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2006年04月19日
即成院
即成院は泉涌寺の総門を入ってすぐ左にある。ここには那須与一の墓といわれる大きな石の宝塔がある。那須与一は源平の戦いの屋島の合戦で、平氏のかかげる扇の的を、海に入って馬上から見事に射落したことで名高い。[本堂裏]本尊は阿弥陀如来坐像と二十五菩薩坐像である。そして、二十五菩薩練供養と言われる、この二十五菩薩を供養するお祭りが、毎年十月の半ばに行われる。本堂と地蔵堂の間に仮につくられた橋の上を、菩薩の面をかぶり、菩薩の姿をした二十五人の稚児がゆっくり練り歩く。本堂が極楽、地蔵堂が現世とのことである。
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2006年04月18日
泉涌寺
観音堂にある楊貴妃観音を拝むと美人になると言われているので、女性のお参りが多い。天長年間に空海が法輪寺という庵を建てたのがその起こりであるが、真言宗泉涌寺派の大本山で皇室の香華院として知られていたので、「御寺」とも呼ばれている。その後、延暦元年に宋の国から帰った月輪大師が、後鳥羽上皇の命を受けて建保6年に再興したが、その落成のときに境内から突然泉が涌きだしたので泉涌寺としたということである。右手にある仏殿は、寛文9年、徳川家綱の造営と伝えられ、舎利殿、雲明殿、開山堂、大方丈、小方丈、楊貴妃観音堂が立ち並んでいる。楊貴妃は中国玄宗皇帝のお妃だが、このお寺に安置されている像は、月輪大師の弟師湛海が宋から持ち帰ったもので、皇帝がその面影をしのんで作らせたものだそうである。
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2006年04月12日
東山区南部
東大路通りを南へ向かい、東海道本線の陸橋を越えると今熊野である。泉涌寺と東福寺が東山区の南の端にある。
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新熊野神社
新熊野神社は東海道本線の陸橋を渡り、新幹線のトンネル部分を過ぎて、右手にある。新熊野神社は旅行安全の神様である。後白河上皇は熊野神社を信仰されていたので、離宮の法住寺殿の中にこの神社をつくられた。新熊野という名は和歌山県の熊野神社の名をとったものである。またここは観阿弥と世阿弥が、足利義満に能を見せたところでもある。
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2006年04月05日
妙法院
妙法院は豊国廟への参道と東大路通りの角が、三十三間堂の本坊となっている。天明八年の大火の際には、仮皇居ともなった格式の高い寺で、国宝、重要文化財も多く、小堀遠州作という立派な庭園もあるが、残念ながら公開されていない。
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2006年04月04日
新日吉神宮
新日吉神宮は、東大路通りを北へ向かいすぐ、智積院と妙法院の間を入り、右手の智積院の左隣にある。新日吉神宮は、後白河法皇が、法住寺殿造営の時に近江の国の日吉の神を勧請して建てられたものと伝えられている。酒造りの神様、医薬の神様そして縁結びの神様として多くの信仰を集めている。新日吉神宮の向かい側は、京都女子大学であるが、女子大との間の道は、阿弥陀ガ峰の山頂にある、秀吉のお墓のある豊国廟への参道となっている。
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2006年04月01日
智積院
智積院は真言宗智山派の総本山で、末寺2800余りである。智山派は大きな宗派で信徒数150万名である。智積院はもともとは、紀伊の根来山大伝法院の一院として創健されたが、秀吉の兵火で焼かれてしまったのを、徳川家康の帰依を受けた玄宥がこの地に中興したものである。広い境内には、大書院、開山堂、大師堂、鐘楼、収蔵庫などがあり、大書院の東側の庭園は、池泉観賞式のもので、国の名勝に指定されている。智積院には、国宝や重要文化財となっている寺宝も多く、特に桃山時代の長谷川等伯の作と伝えられる障壁画は見事なものである。これは収蔵庫に展示してある。
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2006年03月27日
耳塚
豊国神社の西に、耳塚と呼ばれる、塚の上に大きな石の塔がのっている塚がある。耳塚というのは、秀吉が文禄の役で敵方の耳を切り取ったのを埋めた塚だと言われているが、他にも、方広寺の大仏を鋳造した鋳型を埋めた御影塚がなまったものだともされている。
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2006年03月20日
豊国神社
豊国神社は太閤秀吉を祀った神社である。京都国立博物館の西側の大和大路通りを北へ上がった博物館の北隣にある。豊臣秀吉は慶長3年に亡くなったが、ここより、東約1.5キロほどのところにある東山三十六峰の一つ阿弥陀ガ峰に葬られた。そして山麓に豊国神社が建てられた。広大な敷地で大層立派な神社であったが、徳川家康は、豊臣氏が大坂夏の陣で、滅んでしまうと、この神社を取り壊してしまった。そして明治13年に豊国神社は再建された。参道の正面にある唐門は、伏見城の城門だったもので、桃山時代の建築の特色をよく伝えている。これは国宝に指定されている。門の前と後ろが唐破風で、両側が入母屋造りで、彫刻が施された凝った造りの四脚門である。境内の宝物館には、秀吉の遺品が陳列されている。
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2006年03月18日
三十三間堂
三十三間堂は京都駅方面から七条通りを東へ向かい、七条大橋を渡ってしばらくいった南側にある。三十三間堂は正式には蓮華王院といい、現在は妙法院の管理の下の境外仏堂となっている。三十三間堂のあるこの辺りは昔、後白河法皇の離宮の法住寺殿があったところである。蓮華王院は、法住寺殿の中にあり、後白河法皇の勅令で長寛2年に平清盛が建てたものである。五重塔、不動堂、北斗堂などを備えた立派な寺院であったが、地震や火災などで見る影もなくなった。そして文永3年、三十三間堂と呼ばれる本堂だけが、再建されたのである。この建物の実際の長さは118メートルもある。三十三間堂の間とは柱と柱の間のことをいう。三十三間堂の中央の須弥壇の本尊の千手観音坐像は、鎌倉時代の湛慶の作で国宝となっている。そして千手観音立像がズラリと並んでいる。1列が100体あり、それが10列で合計1000体の観音様が整列している。そして裏側1体と千手観音立像は全部で1001体になる。観音様は顔立ちも衣の形も少しずつ違っていて、同じものは1つもない。高さは全て166センチ、寄木造で漆箔が塗られている。裏側にまわると国宝に指定されている二十八部衆立像と風神、雷神の立像がある。お堂を出て、南側を見ると、長い土塀がある。太閤塀と呼ばれ長さが92メートル、高さが5メートル以上もある。南大門と共に国の重要文化財となっており、名前の通り豊臣秀吉の造った物である。
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