2006年12月08日
延暦寺
延暦寺は延暦7年(788)、伝教大師最澄によって創建され、天台宗の総本山、国家鎮護の法城として栄え、その盛りの時は、三塔十六谷、寺坊三千を数えたということである。円仁、良源、源信、法然、栄西、道元、親鸞、日蓮、一遍など、日本の仏教の宗派を形づくった名僧といわれる方々がこのお寺で学んだ。白河上皇の“三不如意”「賀茂川の水、双六の賽、山法師(叡山の僧兵)は、これ朕が心に従わざる者」という中の一つ、僧兵の延暦寺ということである。何か事が起こると、頭に袈裟を巻いて「頭に来た!」とばかり、高下駄を鳴らし、薙刀をかかえて京の街へと下りていく。そればかりか、日吉山王の神輿をかつぎ出して、「エッサ!ホイサ!」と押しかけたもので、人々は「神輿振り」といって恐れた。筋違いの武力を看板に一国一城として振舞ったために、元亀2年(1571)ついに織田信長によって全山が焼き払われ、数千人という僧が殺された。叡山は江戸時代にほぼ復興して、今日のような総本山としての貫禄を取り戻した。
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2006年11月29日
比叡山
比叡山は、京都府と滋賀県にまたがり、頂上を境にして西側は京都に入っている。標高848メートルの最高峰は大比叡であり、頂に立てば市街や東山一帯、さらに琵琶湖や大津市が一望できる。八瀬や坂本から登るケーブルカーのほかロープウェー、比叡山ドライブウェイなどが開かれている。四明ガ岳の頂上には「将門岩」と「純友岩」があり、それにまつわる話が残されている。承平・天慶の頃、平将門はこの岩の上に立ち広大な景色を見渡しながら、藤原純友に「お前は西日本をとれ、わしは東日本をとる。同時に事を起こして、再びここで落ち合おう」と約束したが、反乱はしずめられ、将門と純友は会うことができなかった。二つの岩の傍らには伝教大師最澄が立ち、この山の開祖として時の移ろいを眺めておられる。また比叡山は延暦寺の聖域として殺生を禁じられてきたので、自然の宝庫であり、鳥類の繁殖地となっている。
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2006年10月27日
百万遍
東大路通りと今出川通りの交差点を百万遍という。百万遍とは、交差点東北の角を占める知恩時の愛称である。交差点の東南は京都大学である。東西に走っている今出川通りを東へ行くと銀閣寺、西へ行くと加茂大橋を渡り、京都御所、同志社大学、北野天満宮方面である。
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2006年10月12日
哲学の小径
若王子から銀閣寺までの桜並木道は、「哲学の小径」とよばれている。西田幾太郎や田辺元という哲学者たちが、考え、模索しながらこの静かな道を歩いたということから言われる。
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2006年06月03日
詩仙堂
詩仙堂は、正しくは凹凸窠といわれた山荘で、石川丈山によって建てられた。詩仙堂はその一室である。凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てられた棲家という意である。中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれ等各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた「詩仙の間」があるところから詩仙堂とよばれた。丈山は寛永18年、59才の時に、この堂に掲げるべき三十六詩人と、その詩を選定した。これは我国の三十六歌仙にならったものである。選定には林羅山の意見も求め、左右十八人。それぞれの組合わせに意味をもたせた。建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、往時を偲ぶことが出来る。丈山はここに「凹凸窠十境」を見立てた。入口に立つ①小有洞の門、参道をのぼりつめたところに立つ②老梅関の門、建物の中に入り③詩仙堂、読書室である④猟芸巣(至楽巣)、堂上の楼⑤嘯月楼、至楽巣の脇の井戸⑥膏肓泉、侍童の間⑦躍淵軒、庭に下り、蒙昧を洗い去る滝という意の⑧洗蒙瀑、その滝が流れ込む浅い池⑨流葉ハク、下の庭に百花を配したという⑩百花ノウ、その他鹿猪が庭園を荒らすのを防ぐため、園水を利用して音響を発したり、丈山自身も老隠の慰めとしたという「僧都」(添水、一般には鹿おどしともいう)等は今も残されている。現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺である。詩仙堂は五月下旬の「さつき」、十一月下旬の紅葉等がすばらしい。
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2006年03月11日
銀閣寺(慈照寺)
足利義政が応仁・文明の乱のさなかに将軍職を義尚に譲り、祖父の義満の金閣寺(北山殿)に劣らない別荘をつくると、文明14年(1482年)からはじめたが、延徳2年(1490年)に完成を見ないで亡くなってしまった。その遺言によって寺となった訳だが、義政の法名、慈照院殿から慈照寺と名づけられ、夢想国師を開祖した。当時は12棟もあったが兵火で失い、銀閣、東求堂の2棟と庭園を残すだけになった。東山の文化の渋さを感じさせるたたづまいは、「月の銀閣」と呼ばれ、政治家として失格だった義政だったが美意識はかなりのものだった。上下二段の庭園と月を観賞したという砂盛は、国の特別名勝、特別史跡の指定を受けている室町時代の名園。義政の歌♪我が庵は月待山の麓にて かたぶく空の影をしぞ思う
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