2006年03月07日

高瀬川

「船入」というのは舟着き場ということであるが、この石柱の建っている辺りは高瀬舟が、物資を積み下ろししていたところである。安土桃山時代の海外貿易家、角倉了以が14年かけて拓いた川で、慶長19年に完成した。了以は文禄元年に秀吉から朱印状を渡されて海外貿易を行い、高瀬川のほかに大堰川、富士川などの開発にも力を尽くした。現在堀割の規模は、東西20メートル、南北6メートルとミニサイズだが、当時は東西約85メートル、南北10メートルという船入だった。高瀬川といえば、森?外の歴史小説「高瀬舟」が思い起こされる。はじめのうちは、お役人と運ばれていく罪人という関係だった二人が、川を下っていく間に心通うものがあり、そんな心の流れが、川の流れと共にしみじみとあらわされている名作である。?外の、この高瀬川への思い入れもひとかたならぬものであったであろう。高瀬川の東にある木屋町は名前の通り昔は材木屋さんが軒を連ねていたところである。

カテゴリー: 河原町界隈

  | コメント (0) | トラックバック (0) |

2006年03月06日

新京極

新京極は三条通りと四条通りの間、寺町通りと河原町にはさまれた約500メートルの南北のアーケード街である。明治5年、京の繁栄のため、初代京都府知事、槇村正直氏がつくったものである。新京極というのは、平安京の東京極大路であったところから名づけられた。映画館、飲食店、おみやげ物店などが軒を並べ修学旅行生や観光客でいっぱいである。

カテゴリー: 河原町界隈

  | コメント (0) | トラックバック (0) |

2006年02月19日

六角堂(頂法寺)

頂法寺は、烏丸通りから六角通りを東に入った所にあり、六角形の本堂を持つことから六角堂と呼ばれている。六角堂は西国三十三ヶ所第十八番の礼所となっており、また華道が始まった所とされており、池坊流はここから起こった。六角堂は、平安京ができる二百年も前に、聖徳太子が創建されたと伝えられる古刹である。弘仁13年には嵯峨天皇の勅願所ともなっている。親鸞上人が百日間にわたって比叡山から毎晩ここに通って祈り、夢のおつげで浄土真宗を開創することになったそうである。ここの寺務所を池坊というが、華道の始まりは、聖徳太子の沐浴した泉といわれる池のほとりに小野妹子が堂を建て、朝夕仏前に花をそえたことだという。花席では常時生花が展示されている。本堂の前に「へそ石」というのがあるが形がおへそに似ていることと、この石が、都の中心にあることからへそ石と呼ばれるようになった。この石は直径40センチ余りあり、中央に穴のあいた石で、礎石か台石と考えられている。平安京造営の時に、祈りを聞き入れて動いてくれた六角堂の下にあった石と言われている。

週刊ブログランキング


ブログランキング にほんブログ村


カテゴリー: 河原町界隈

  | コメント (0) | トラックバック (1) |

本能寺

河原町御池の交差点の西北の角は京都市役所である。本能寺会館のビルは京都市役所の御池通りの反対側にある。本能寺会館の南側に本能寺の本堂や七つの塔頭がある。本能寺の変があったときの本能寺は、四条西洞院という所にあった。事件後の天正15年に豊臣秀吉の区画整理によってここに移転してきたのである。本能寺は日隆が応永22年に創建した法華宗本門派の大本山である。場所は幾度か変わったが、天文14年に四条西洞院に移り、そこで「本能寺の変」が起きた。当時の本能寺は敷地も広く大変栄えており、30余りの坊を構えていた大きなお寺で、織田信長が宿舎としていたほどである。けれども、天正10年6月2日、明智光秀の軍勢に襲われ、織田信長は自害し、寺は焼けた。現在の本能寺の境内には、織田信長の供養塔や本能寺の変の戦死者の碑など、事件を偲ぶものもある。
              

ブログランキング にほんブログ村


カテゴリー: 河原町界隈

  | コメント (0) | トラックバック (0) |